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千家十職永楽善五郎(十六代即全)造 寿青海盆(十三代即中斎自筆・書付)(共箱)

千家十職永楽善五郎(十六代即全)造 寿青海盆(十三代即中斎自筆・書付)(共箱)
商品番号:4941387
価格:  100,000円
(税込 110,000円)
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  千家十職永楽善五郎(十六代即全)造 寿青海盆(十三代即中斎自筆・書付)(共箱)
<商品説明>
サイズ名称 口径 高台径 高さ 長さ
  13 cm 3.5 cm   25.6 cm  
木箱:蓋の桟が片方外れています。

本体:高台に汚れがあります。その他には問題はなく、比較的綺麗な状態です。

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タグ
流派・宗家 表千家十三代即中斎
産地・種類 京焼
千家・十職 永楽善五郎十六代即全
茶室 不審庵

詳細
状態 よい
素材 陶器
永樂善五郎  千家十職、土風炉・焼物師。  もともとは西村姓で、土風炉をつくっていた。  西村家初代宗禅(?~1558)は大永年間(1522~1528)に大和国西京に住し春日神社の土器をつくっていたが、武野紹鷗の好みにより土風炉をつくったとされ、これを俗に奈良風炉という。  三代宗全(?~1623)は利休に従って京都に入り、細川三斎のすすめで新町上立売に開業したと伝えられている。小堀遠州より宗全の銅印を受け以後九代まで宗全印を用いた。  五代宗筌(?~1697)から千家のしごとを受けるようになったといわれ、表千家四代江岑の書付のある風炉の切型帖が永楽家に伝えられている。  六代宗貞(?~1714)表千家六代覚々斎好みも達磨堂釜のためにつくられた土風炉が伝えられている。  十代了全のころから陶器をつくりはじめ、十一代保全は「永楽」印を賜り、十二代和全の時代に永楽姓に改めた。 ●十代 了全 1770~1841  幼少にして両親に別れ、天明の大火で家を失い、千家に養われた。成人して楽家九代了入につき陶法を学び家業の土風炉のほか、交趾写し・安南写しなどをつくった。  文化十四年(1817)表千家九代了々斎より了の一字を贈られ了全と称す。  文政十年(1828)養子の善五郎(十一代保全)が紀州家より「永楽」印を拝領すると、了全もまた永楽を姓とした。  表千家伝来「捻貫水指」、裏千家伝来「古銅写し杓立」、武者小路千家伝来「丹波焼舟花入」などが著名。了々斎好みには紫釉鳳凰風炉がある。 ● 十一代 保全 1795~1854 十代了全の養子。はじめ善五郎、のち善一郎と改め、その後永楽を姓とした。  天性陶技に優れ粟田口の岩倉山家、土器師山梅のもとへ通って技を磨いた。  文政十年(1827)に表千家吸江斎宗左が紀州徳川治宝に召されたとき紀州に赴き「河濱支流」の金印と「永楽」の金印を賜った。この頃の作品には交趾写し・染付・金襴手・赤絵などがある。  弘化初年(1844ころ)より、善一郎の署名を用い、また鷹司家より「陶鈞軒」の号を賜りのちに印章も拝領。嘉永ごろより保全を称した。  善一郎時代とともにその生涯中最も優れた作品を残した時期であり染付を得意とし、とりわけ祥瑞写しに妙技を発揮した。 ●十二代 和全 1823~1896  幼名仙太郎、通称善五郎。十一代保全の長男。  嘉永五年(1825)御室にある野々村仁清の窯跡を再興。「おむろ」の印を用いて元治年間(1864~1865)まで義弟宗三郎(十三代回全)とともに製陶。  明治五年に三河岡崎へ赴き開窯、これを岡崎永楽という。  明治十五年ごろ京都の高台寺鷲尾町に移って菊渓窯をはじめた。  金襴手は保全より優れていた。 ●十三代 回全 曲全  永楽家では、十二代和全の義弟宗三郎と、保全・和全に仕えた西山藤助の二人を十三代に数えている。  回全宗三郎(1834~1876)は塗師佐野長寛の次男。弘化四年(1874)に養子として永楽家に迎えられ、最初は善次郎と称した。御室の仁清の窯跡で製陶し「西園」の印を用いた。嘉永二年(1849)和全の跡継となったが、のちに分家し西村宗三郎と称した。  西山藤助(1819~1883)は八歳のころから十一代保全に養われ、続く和全の代まで轆轤師を務め和全の御室焼や加賀行きにも従った。 ● 十四代 得全 1853~1909 妙全 幼名常次郎、通称善五郎、得善とも。十二代和全の長男。  明治四年に和全より家督を譲られ、十九歳で家業を継いだ。作風は力強い物が多く呉須赤絵を得意とした。  妻の悠(1852~1927)は妙全と称し、得全亡きあとの十九年間家業を継承。優美な作品を残している。 ●十五代 正全 1880~1932  十四代得全の甥。本名は山本治次郎。  十八歳で永楽家に入り、得全より陶技を学び得全亡きあとは、妙全とともに家職を務めた。  妙全が亡くなった昭和二年に十五代を襲名するが、わずか五年後に亡くなった。その質は温厚で自ら「隠全」と称したと伝えられている。 ●十六代 即全 1917~1998  十五代正全の長男。妙全の養嗣子。  昭和十年(1935)十八歳で十六代を襲名、正全の遺志を継ぎ三井家の大磯別荘に城山窯を築いた。  楽家十四代覚入らと京都伝統陶芸家協会を結成して会長となり、戦後の茶道界隆盛の中で三千家の茶陶などを多く制作した。  京都市文化功労者表彰、京都府文化特別功労賞を受賞。  昭和三十三年に発表した源氏物語五十四帖の作品群が代表作。 ●十七代 当代 1944~  十六代即全の長男、名は絋一。  平成十年に十七代善五郎を襲名した。

表千家  千利休を祖とし、二代千少菴を経て三代千宗旦の三男江岑宗左からはじまる。不審菴ともいい歴代の名乗りは宗左。 ●四代 江岑宗左 1613~1672  名は右馬之允(うめのすけ)といい茶名ははじめ宗受のち宗左。  寛永十九年(1642)紀州徳川家に仕え、その際藩主から系譜や由緒書等を微されたため千阿弥を祖とする千家系譜が成立。  好みの道具としては、唐銅鳳凰風炉・大朱手桶・三木町棚がある。  寛文十二年に亡くなる。 ●五代 随流斎良休 1650~1691  幼名源三郎。宗旦の娘のくれと久田家二代宗利との間に生まれ、寛文のはじめ(1661)ころ表千家に迎えられた。  はじめ宗巴のち良休宗左と称し、随流斎の号は大徳寺一渓宗什から授与された。好みものには蔦茶桶が有名。  実家久田家から兄宗全の子を養子に迎え、元禄四年四十二歳で亡くなった。   ●六代 覚々斎原叟 1678~1730  幼名勘太郎、久田宗全の子。  十二歳の頃随流斎の養子となり宗員の名で修行した。十四歳のころ養父に死別して六代を継ぎ宗左を名乗り、流芳軒と号した。別号の原叟は没後の追号。  亨保八年江戸に上ったおり将軍吉宗から唐津の茶碗を与えられた。桑原茶碗という。  随流斎の三女である妻の秋との間に如心斎・宗乾・一燈の三子があり如心斎は七代を継ぎ、宗乾・一燈は裏千家の養子に入り七代最々斎・八代又玄斎となった。  好みの茶道具は多く桐木地三重棚、菊桐蒔絵雪吹大小、ぶりぶり香合、松の木四方盆、手付置籠、少阿弥陀堂釜、網絵懐石家具一式などが有名。茶室の好みには原叟床四畳半、枡床四畳半などがある。 ●七代 如心斎天然 1705~1751  幼名与太郎のち宗巴、宗員。六代覚々斎の長男。  二十六歳で家元を継承、如心斎の号は紀州候から受け丁々軒とも号した。また天然の号を大徳寺の大龍宗丈から受け、椿斎の号ある。  紀州徳川家の庇護および三井八郎兵衛の経済的援助を受けた。  如心斎は大徳寺の無学宗衍・大龍宗丈、弟の裏千家八代又玄斎、塗師三代中村宗哲らと七事式を制定し、これに適した八畳床付の花月楼を好んだ。  元文四年(1739)利休百五十回忌に当たり利休堂を建立。 ●八代 啐啄斎件翁 1744~1808  幼名与太郎。七代如心斎の長男で八歳のとき死別、川上不白らの援助を受け叔父の裏千家八代又玄斎の指導を仰ぎ茶湯の修行に励んだ。  十四歳のとき宗旦百回忌を迎えそれを機会に宗左を名乗り八代家元を継承。  天明八年(1788)大火により茶道具以外全てを焼失。  好みの茶道具としては不審庵西の坪の松の大木で好んだスリ漆丸香合、鉋目敷板、松の木溜塗丸卓、鉄道安風炉、蔦平茶器などがある。  文化元年還暦を迎え隠居し宗旦を名乗りそれを記念して干支にちなみ、啄元弥介に赤黒の甲子茶碗を作らせた。 ● 九代 了々斎曠叔 1775~1825 幼名貞蔵。久田家六代宗渓の長男。  八代啐啄斎の長男と長女は早世しあとに三人の娘がいたが、その上の娘沢の婿養子として久田家から迎えられた。  三十四歳で九代を継ぎ紀州徳川家に仕え、和歌山西浜御殿のうちに実際庵の三畳台目の席を好んだ。  また文政二年春、楽家十代旦入とともに出仕し製陶にたずさわり、文化十三年(1816)に大徳寺剛堂宗健から好雪軒の号を受けた。表千家の総門をなす武家門は文政五年四月、紀州徳川家の治宝を迎えた節に建てたものと伝えられる。  好みの茶道具に青漆爪紅長板、真塗小手桶、金入灰器、朱黒網絵懐石家具などがある。 ● 十代 吸江斎祥翁 1818~1860 九代了々斎には男子があったが早世、また弟の皓々斎は久田家に留まり 啐啄斎の娘きとを妻としていたのでその子、達蔵を迎え十代家元とした。九歳であったため後見に住山楊甫が当たり十歳のとき紀州家に出仕した。  天保七年(1836)徳川治宝は吸江斎に台子真点前の皆伝を授けた。  天保十年利休二百五十回忌を務め追善茶会を催し、弘化二年(1845)大徳寺拙叟宗益より安祥軒の軒号を与えられた。のち、如心斎百回忌・宗旦二百年忌などを営んだ。  好みの茶道具には溜二重棚、手付桐煙草盆、玉の絵棗などがある。 ●十一代 碌々斎瑞翁 1837~1910  幼名与太郎のち宗員、吸江斎没後宗左を名乗った。十代吸江斎の長男。  二十余歳で十一代を継いだが間もなく明治維新を迎え江岑以来の紀州徳川家の出仕のこともやみ、家元にとって苦難の時代を迎えたが、明治十年を過ぎると茶道界も近代の茶道としての第一歩を踏み出した。  明治十三年北野天満宮に献茶奉仕、栂尾高山寺で明恵上人六百五十回忌に際し供茶をした。同二十三年には利休三百年忌、また随流斎二百年忌の追悼茶事を行った。  明治二十五年隠居して宗旦と称す。同三十九年表門を除く家屋の全てを焼失したが同四十二年には残月亭のみ復興した。  好みの茶道具では既望棗、ふくべ釜がある。 ●十二代 惺斎敬翁 1863~1937  十一代碌々斎の長男で、碌々斎が早く隠居したため十二代を継承したが重要な行事は碌々斎が主となった。  碌々斎の没後は表千家復興のため努力し大正二年(1913)に不審庵の再興、同十年には松風楼を増築した。  好みの茶道具は歴代の中で最も多く、その多くは千家十職によるもの。また鎌倉彫、萩焼、膳所焼、薩摩焼なども多い。  惺斎の嫡男与太郎は昭和十年に宗員号を大徳寺の円山伝衣から受け、弟の覚次郎とともに、病気がちであった惺斎を助けるはずだったが父に先立って四十歳で亡くなった。 ●十三代 即中斎無盡 1901~1979  十二代惺斎の次男。長兄宗員の早逝により昭和十二年宗左を襲名。  昭和二十四年財団法人不審庵を設立、同五十年には表千家同門会を社団法人とし機関誌「同門」を発行。  昭和五十四年七十九歳で亡くなる。 ●十四代 而妙斎宗左 1938~  名は岑一郎、十三代即中斎の長男。  中央大学卒業。昭和五十五年十四代家元を襲名した。